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  概 要
  アーティストや旅行者の目がとらえたアレクサンドリア
  写真に残る国際都市アレクサンドリア
 

 

印象に刻まれたアレクサンドリア――アワド・コレクション

写真に残る国際都市アレクサンドリア

 

写真と絵葉書のコレクションは、19世紀前半から20世紀中頃までの古き良き時代の、国際都市アレクサンドリアの雰囲気を伝えています。当然ながら写真家たちは、「クレオパトラの針」と称されるオベリスク、「ポンペイの柱」といった考古学遺跡のある場所、マフムディーヤ運河やその近郊のような風光明媚な場所に惹きつけられました。不規則に折れ曲がる伝統的な狭い道、広場が少なく、トルコの様式が混在した地元の家々という古くからの街並が撮影されています。

また、それとは対照的に、1834年以降いわゆる「プラス・ド・コンシュル」と称される界隈に発展したヨーロッパ人地区を撮影したものもあります。そこでの都会風の集まり、高度に洗練されたヨーロッパ趣味の建物、新しいリングアフランカ(異民族間の混成言語)と西洋化された生活様式は、まるでヨーロッパの大都市と同じものでした。


 
 

エジプトで最初に写真を撮影したのが、フレデリック・ゴウピル・フェスケです。それは、まさに写真が発明された年のことで、アフリカにおいても最初のものでした。1839年の銀盤写真法で撮影されたラセル・ティンにあったムハンマド・アリのハーレム(宮殿)の写真です。

マクシム・ド・カンは、1849年にエジプト旅行でフランス人作家グスタフ・フロベールに同行し、オテル・ド・オリエントというかなり粗末な宿を写しています。また、ボルジォッティは1877年にアレクサンドリアのオベリスクのロンドン搬送の一部始終を記録しています。

さらに珍しい写真は、パスカル・セバ撮影の「プラス・ド・コンシュル」で、これは1871年にムハンマド・アリの像がその中心地に設置される以前のものです。しかし、ここは、1882年の英国艦隊の砲撃によって相当の打撃を蒙ったことが、ライザー、ボンフィルスによる記録や、アレクサンドリアの廃墟を写したフィオリロのアルバムにある膨大な資料に残っています。

 

ラセル・ティンのムハンマド・アリのハーレム宮殿
銀盤写真
フレデリック・ゴウピル・フェスケ(Frederic Goupil-Fesquet)撮影 1839年11月7日(エジプト、アフリカで最初に撮影された写真と推定)

 

 
 

1882年撮影の写真によって、アレクサンドリアの町の復興に国際人コミュニティが大きな役割を果たしたことがわかります。ギリシアやイタリアやレヴァント人の名だたる人々が邸宅を建設し、コミュニティの学校、病院、クラブ、社会福祉基金などに資金援助をしました。

彼らの豪奢な生活ぶりは、ロゼッタ・スケート場、モハラム・ベイの射撃倶楽部、ラムレーのカジノの音楽会、ノウザやアントニアディスでのガーデン・パーティなどの写真や、ジジニア劇場に出演中の有名女優サラ・ベルナールの写真を撮ったアジズやドーレスのパートナーたちが写った写真に見ることができます。

 

ロゼッタ・スケート場
ニコラス・パラスケヴァス撮影  1907-1924

 

 
 

1890年、アレクサンドリアの自治体を創設したことで、都市としての発展が進みました。1904年のラムレー鉄道の電化、都市部と公立後援の美化整備(1909)、コーニッシュ(東湾の湾岸道路)の整備(1905-1927)と1927年の公営スタジアム建設というような事業が行なわれ、こういった場所が当時流行した絵葉書にもなっています。

そのような開発地区の大部分に、19世紀初頭に出現し20世紀半ばまで続くヨーロッパ文化に傾倒した複合文化が反映されています。それは、ネオ・クラシック、ネオ・ゴシック、ネオ・ルネッサンスというような折衷主義と古い歴史の再現という流行に現れており、それがアレクサンドリアの社会の混合された国際性を表しています。

「オリエント風」建築様式は、異国風のオリエント趣味の形式に多少は見ることができましたが、地元や独自の表現(ネオ・イスラムとかネオ・ファラオティック)が出現するまでには至りませんでした。むしろアレクサンドリアの独自性は、国際化が進展し支配する下で押さえつけられましたが、ナショナリズムや汎アラブ主義という社会経済や政治的な風潮の高まりの影響を受けるようになりました。

 

ジジニア劇場と女優サラ・ベルナール 1907

 

 
  

20世紀へと時代が進むにつれて、アレクサンドリアの建築物はどんどん流行の装飾的スタイルへと移行していきました。1926年築のグスタフ・アギヨンの邸宅や1934年築のダイラ・イエヒア・パシャの邸宅の建物には、フランス人建築家オーギュスト・ペレによるアールデコ様式が見られます。

アーリー・モダンの合理的な建築への移り変わりは、1931年築のクレメンテ・ブッシーリ・ヴィキ設計によるイタリア人学校リットリオ・スクール、1936年のジャン・ウォールター設計のコジカのギリシア病院、1938年アーネスト・クープ設計のモアサ病院などに取り入れられました。ムスタファ・ファミィ・パシャやアリ・ラビブ・ガブル・ベイといった初代エジプト人建築家たちが参画し貢献した記録もあります。

アレクサンドリア生れの建築家ハッサン・ファサイ(1900-1989)が推進した地元ならではの新たな建築様式には、地元の手つかずに残る環境に触発されたような昔からの様式が取り入れられています。ただ、このこともまた、アレクサンドリアの出来事としてはたいへん珍しいことではあります。社会が経済的に必要とするものと矛盾せず環境とも調和するような、貧者のために貧者が建設する建物が必要だとして、ハッサン・ファサイは伝統的な建築技術と地元の建築専門用語の発展を奨励しました。

 

グスタフ・アギヨンの邸宅 ペレ撮影 1926