日本大百科全書

写本

しゃほん
目次:

印刷された書物すなわち刊本に対し、手で書き写された本のこと。


日本

「書写本(しょしゃぼん)」「筆写本」「鈔(しょう)(抄)本」などともいう。


 写本には筆写の方法によってさまざまな呼び方がある。編著者自らが書いたものを「自筆本」、編著者以外の有名人が手書きしたものを「手写(しゅしゃ)本」、底本を横に置いて字体や行の移りまで忠実に模写したものを「臨写(りんしゃ)本」「臨(りんも)本」、底本の字体や行の移りなどは考慮せずに、内容だけを誤らぬように写したものを「見取書(みとりが)き」「謄写(とうしゃ)本」、底本の上に薄い紙を直接置いて、底本どおりに忠実に透き写したものを「影写(えいしゃ)本」などという。影写本には、細い筆で文字の輪郭を写し取り、その中を墨で埋める、いわゆる「双鉤填墨(そうこうてんぼく)」の方法をとったものもある。天皇の筆写本は「宸筆(しんぴつ)本」「宸翰(しんかん)本」、皇族の筆写本は「御筆(ぎょひつ)本」とよばれる。なお安土(あづち)桃山時代の文禄(ぶんろく)年間(1592〜96)までの写本は、とくに「古写(こしゃ)本」〔江戸時代初期の慶長(けいちょう)・元和(げんな)(1596〜1624)ころまでを含むという説もある〕と称され、珍重されている。


 わが国における現存最古の写本は、聖徳太子筆と伝えられる『法華義疏(ほっけぎしょ)』四巻(宮内庁御物)であるが、これに続くものとしては686年(朱鳥1)の教化僧宝林筆の『金剛場陀羅尼経(こんごうじょうだらにきょう)』一巻(国宝)、706年(慶雲3)の『浄名玄論(じょうみょうげんろん)』巻六(国宝)、写経以外では707年の『王勃詩序(おうぼつしじょ)』(正倉院御物)が名高い。奈良時代における写本は写経が大部分を占め、国書、漢籍の類はごく少なかった。ことに天平(てんぴょう)年間(729〜749)は写経事業が盛んで、官立の写経所で数多くの仏典が写経生によって書写された。平安時代には木版印刷による刊本も出たが、写本は引き続いて行われ、写経では紺紙金銀字(こんしきんぎんじ)の『中尊寺経』や平家一門の『平家納経』などがあり、とくに後者は美術的意匠を凝らした豪華な装飾経として有名である。国書、漢籍の写本作成は平安時代から本格的となる。現存する漢籍は約40種、国書は約150種、そのなかには西本願寺本『三十六人集』など優美な草仮名の写本も少なくない。鎌倉時代以降、刊本はますます盛んになったが、写本は依然として続けられていった。書写される国書、漢籍の種類も著しく多様となった。


 写本の歴史のなかでとくに注目すべき点は、『日本書紀』『万葉集』『竹取物語』など、わが国の歴史や国文学の重要な古典は、慶長年間(1596〜1615)から古活字版の形式で出版されるまでは、写本の形で伝えられてきた点である。


[金子和正]


西洋

マニュスクリプトmanuscript(略称MS, MSS)とはラテン語のmanu(手で)とscriptus(書かれた)から発生したことばで、「手で書かれた本」の意味である。


写字生

写本の書写をする人を写字生という。ギリシア・ローマ時代の書写作業は奴隷を使って大々的に行われたので、アレクサンドリア神殿の学寮には20万巻にも及ぶ巻子本(かんすぼん)が所蔵されていたといわれる。ところが中世になると写本作りはもっぱら僧院の書写室で細々と行われるようになり、書写は僧侶(そうりょ)の義務となった。しかし12世紀以降に大学が興隆してくると、写本作りが商売として成り立つようになり、パリのような大学町には書写を専業とする写字生が誕生したのであった。


書写材

ギリシア・ローマ時代はパピルスが主要な書写材であったため、写本は巻子本の形をとっていた。巻子本は、書いたり読んだりしやすいように一定の幅の欄にくぎられていた。書写は通常は表面だけを使い、裏面まで使った「両面書き写本」の例は少ない。しかし羊皮紙や小牛の皮でつくったベラムが書写材の主流になると、写本は冊子体形式となり、この形は紙の時代になっても変わることはなかった。冊子体であるから両面書きであることはいうまでもないが、羊皮紙やベラムは材質がじょうぶなことから、使用済みの文字を削り落とし、再利用することがあった。これを「重ね書き写本」という。また写本のなかには『聖務日課書』や『時祷書(じとうしょ)』などのように、細密画で飾られていたり文字自体が彩色されていたりすることがある。細密画家とか彩色師が腕を競い合った写本を「彩色写本」という。


書体

当初は碑文に彫るための書体から転用したアンシャル書体や、これに少し円みをつけた半アンシャル書体が使われた。その後、時代とか地域の特徴を加味して、『ケルズ本』や『リンディスファーン福音書(ふくいんしょ)』の島嶼(インシュラー)半アンシャル書体、フランスのカール大帝の治世に考案されたカロリンガ小文字書体、ゴシック書体、さらには古典主義の復興期に生まれた人文主義書体などが写本用の書体として使用された。


奥書

標題紙は刊本時代のくふうなので、巻子本形式はもちろんのこと、冊子体形式でも写本には標題紙は見当たらない。そのかわりに写字生は文章をインキピットincipit(ラテン語の「ここから始まる」)で始め、エクスプリキットexplicit(「ここで終わる」)で文章を閉じ、そのあとに著者名、書写日、写字生の名前を記した「奥書(コロフォン)」colophonを用意したのであった。


[高野 彰]

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