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本田 由紀(東京大学大学院教育学研究科准教授)

「専門性」が導く 真の多元化

不安定・不透明化する社会に「足場」を築く

本田 由紀(東京大学大学院教育学研究科准教授) 「専門性」が導く 真の多元化 不安定・不透明化する社会に「足場」を築く

不公平で曖昧なハイパー・メリトクラシー化社会

「ポスト近代社会」段階に足を踏み入れた現在の日本では、「近代社会」の編成原理であったメリトクラシー(「業績主義」を人々の社会的位置づけに関する支配的なルールにする社会)が変質し、「ハイパー・メリトクラシー」化しています。

 

ハイパー・メリトクラシーは、いわば「むき出し」のメリトクラシーであり、従来のメリトクラシーにおいて重要な意味を持っていた手続き的な公正さという側面が切り捨てられ、場面場面における個々人の実質的・機能的な有用性に即して個々人を遇するという、「業績主義」が本来持っていたけれど抑制されていた側面が前面に押し出されます。換言すれば、従来のメリトクラシーの「たてまえ」性ないしイデオロギー性が希薄化して、よりあからさまな機能的要請が突出したものがハイパー・メリトクラシーです。

 

「近代社会」のメリトクラシー下で人々に要請される能力を「近代型能力」、「ポスト近代社会」のハイパー・メリトクラシー下で人々に要請される能力を「ポスト近代型能力」と呼ぶとすれば、後者は前者よりも広範囲になり、さまざまな要素が組み込まれて「多元化」しています。

 

「近代型能力」とは、主に標準化された知識内容の習得度や知的操作の速度など、いわゆる「基礎学力」としての能力です。それは標準化されているがゆえに試験などによって計測され、共通の尺度で個人間の比較を可能にします。それは何らかの与えられた枠組みに対して個々人がどれほど適応的にふるまったかを測っていることになります。また、組織的・対人的な側面としては、順応性、協調性、同質性が期待されます。それに対して「ポスト近代型能力」とは、文部科学省が掲げる「生きる力」に象徴されるような、個々人に応じて多様であり、かつ意欲などの情動的な部分(EQ)を多く含む能力です。既存の枠組みに適応することよりも、新しい価値を自ら創造すること、変化に対応し変化を生み出していくことが求められます。組織的・対人的な側面では、相互に異なる個人の間で柔軟にネットワークを形成し、その時々の必要性に応じて他者をリソースとして活用できるスキルを持つことが重要になります。

 

このような「ポスト近代型能力」に対する要請は教育界だけでなく経済界、言い換えれば経営者団体からも高まっています。たとえば、経済団体連合会(当時)は1996年3月26日に出した『創造的な人材の育成に向けて――求められる教育改革と企業の行動――』という提言で、今後「求められる人材」とは「主体的に行動し、自己責任の観念に富んだ、創造力あふれる人材」である、としています。経済界も教育界と似通った要素を挙げており、それによって人々に対する「多元的な要素を持ったパーフェクトな人間になれ」という圧力が日本の社会の中で高まっています。

 

日本の社会は、自分と異なる他者と共存していくのが苦手で、差異に対する許容性が低く、不寛容です。すなわち基本的に多様なもの、多元的なものを排除しようとする。にもかかわらず、個々人単位では多元的な要素を要求するという、矛盾した状況になりつつあります。

 

私は、そういう社会――人々に多元的な「ポスト近代型能力」を求めるハイパー・メリトクラシー化した社会――に批判的な立場をとっています。その理由のひとつは「ポスト近代型能力」が、きちんと教えたり、習ったり、それは誰が高いのかを測ったりすることができない、非常に曖昧な能力だからです。

 

「近代型能力」に対する教育的・社会的な選抜要素は、主に認知的(cognitive)な要素でした。つまり、何冊も学習ドリルをこなせば、時間をかけて学べば、あるいは徹夜で勉強すれば何とかなり得るようなものでした。それは教わることができ、習得することも比較的しやすいものでした。しかし「ポスト近代型能力」である多様性や新奇性、創造性、個性、ネットワーク形成力、交渉力などは、いずれも認知的だとはっきりと区切りができないもの、しこしこと勉強したりして努力しても身につけられるかどうかわからない非認知的(non-cognitive)な要素まで幅広く含み込んでいるため、伝達も習得も計測も難しい。したがって、前述したように従来のメリトクラシーにおいて重要な意味を持っていた手続き的な公正さという側面が切り捨てられているわけです。

 

わかりやすい例をあげると、たとえば大学の入学試験は同じ場所で、同じ試験問題で、同じ制限時間で行なわれます。採点も厳正に行なわれ、共通の条件下で公正に能力を検証することができます。ところが、創造性、個性、ネットワーク形成力などの評価は、厳正な手続きによる公正さを踏まえようがありません。人によって評価基準が違うかもしれないし、高低を測る物差しのつけようがないので、採点のしようもない。常に事後的であり、主観的であり、恣意的(arbitral)です。もし、そういう「ポスト近代型能力」が存在するとすれば、それはたぶん「近代型能力」と比べてもさらにいっそう、個々人の生来の資質か、あるいは成長する過程における日常的・持続的な環境要件によって決まる部分が大きいと思われます。つまり、家庭環境の格差が反映されやすいということです。

 

これまでの教育システムがそれなりの公正さを主張しえたのは、国民のすべてが小学校、中学校に通い、大半が高校に進学し、学習指導要領で定められた標準的な内容を学んでいたことになっていたからです。その中で学力に差がついたとしても、それは条件が同じなのだから本人の素質的なものと努力したかどうかによるものであって、一応手続き的には公平であると主張しえたわけです。

 

ところが、いまや教育システムの中でも、ハイパー・メリトクラシー的な要素が求められる度合いが高まっています。たとえば、学習指導要録の評価項目に1989年ごろから「関心・意欲・態度」という項目が付け加えられました。また、大学入試では推薦入試やAO入試などハイパー・メリトクラシー的な入り口が拡大する一方です。日頃の学習への積極性や生活態度といった、教師の印象に基づいて内申書に記載されるような内容が重視される選抜が増えているのです。

 

もうひとつ、私がハイパー・メリトクラシー化した社会に批判的な理由は、その人の存在や人格の全体が評価の対象となり、そのすべてを最大限発揮せよと求められる社会が、個人として生き易いとは思えないからです。圧力の強さ、つらさ、しんどさという点で、私は肯定的になれません。

 

もちろん、グローバリゼーションや経済競争の観点から見ると、先進諸国が標準的な製品を作り続けていれば経済成長を維持できるような段階では、すでになくなっています。先進諸国の産業はニューエコノミーと呼ばれる段階に達していて、その中で経済成長を維持していこうとすれば、非常に高い付加価値をつけることが重要になってきます。生活を維持していくための基本的なものは、ほぼ行き渡っているわけですから、そのうえでなお消費需要を創出するためには、生活上必要がないかもしれないようなハイテクノロジーや、ちょっとしたデザインの面白味や流行といったところで、人々の需要を薄く削り取るように喚起していくしかない。そのためには新規性や創造性が不可欠であることは否定できません。また、ニューエコノミーは全体的にサービス産業化しているので、人との接点が非常に重要になり、感じの良さやコミュニケーション能力など対人能力的な要素が求められるようになるのも不可避だと思います。

 

したがって世の中の趨勢としては、ハイパー・メリトクラシー化や能力要請の多元化が、放っておけば自然と進行する状況にあることは確かです。かといって、それを称揚したり、それに適応するしか選択肢のない世の中というのは、やはり人間にとって住みづらいと思います。だから私は趨勢として進行するハイパー・メリトクラシー化や能力要請の多元化に対して、その非人間性みたいなものを認識したうえで、それを抑制していくというか、それが支配する範囲を押し留めていく、あるいは全員が全員、その波に乗らなくても、オルタナティブなルートで生きていけるような状況も作り出すべきだと考えています。

本田 由紀(東京大学大学院教育学研究科准教授)

本田 由紀 (ほんだ ゆき)

教育学博士

東京大学大学院教育学研究科比較教育社会学コース准教授

 

[ 略歴 ]

1964年徳島県生まれ。

東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。

博士(教育学)。

 

94年から日本労働研究機構(現労働政策研究・研修機構)研究員として数々の調査研究プロジェクトに従事。2001年に東京大学社会科学研究所助教授となり、03年から06年まで東京大学大学院情報学環助教授を併任。

 

[ 主要著書 ]

『若者と仕事――「学校経由」の就職を超えて』東京大学出版会/『多元化する「能力」と日本社会――ハイパー・メリトクラシー化のなかで』NTT出版 など

 

[ 編共著 ]

『女性の就業と親子関係――母親たちの階層戦略』勁草書房/『学力の社会学――調査が示す学力の変化と学習の課題』岩波書店/『「ニート」って言うな!』光文社/『若者の労働と生活世界』大月書店 など